冒険しよう。東京の島。式根島観光協会

歴史れきし

古地図

紀元前

式根島に人が住み始めたのは紀元前6500年ごろ(縄文時代の中期)とされています。
というのも、吹之江遺跡(ヘリポート)、石白川遺跡などからその時代の遺物が大量に発掘されたからです。
考古学的調査からこの時代、式根島に住んでいた縄文人は本州からではなく、南方諸島から来た人々ではないかという説もあります。
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中世

中世に時代を移すと、残念ながら遺物は未だごく少数ですが、変わりに日本書紀などの書物によって伊豆の島々が姿を表します。それは、皇族、貴人などが流刑にされたところとしての、また治める領土であったとの記述です。式根島に限定するならば、平家の落ち武者の怪猫退治の伝説があるのみです。

江戸時代

江戸時代の伊豆諸島は幕府の直轄領でその代官によって行政が行われていました。
この時代になると現存する書物も豊富で、島の統治系統、課せられた年貢など当時の様子を詳細に知ることが出来ます。
そのころ、式根島には定住者はおらず、流人を新島、八丈島に運ぶ際の仮泊港として、あるいは年貢の塩を臨時に精製する場所、また湯治場、漁場であったようです。
仮泊港としては江戸時代前の関が原の合戦の後、敗将宇喜田秀家が八丈島に流刑にされた際、泊港で風待ちをしたとの言い伝えも残っています。
古くは室町時代から天然の港として使われていた泊海岸
古くは室町時代から天然の港として使われていた泊海岸

明治時代

明治維新後、伊豆諸島の行政管轄は、韮山県、足利県、静岡県と目まぐるしく変わります。このころも式根島に定住者はおらず、どこの持島であるかも定かではありませんでした。
しかし、新島住民にとっては魚介類や野草など生活の糧を得るための貴重な場所。
そこで、式根島分の納税を約束する変わりに式根島の帰属を認めてほしいとの願書が静岡県宛に提出されます。紆余曲折の後、式根島の開拓を条件に新島への帰属が認められます。
そしてついに式根島への入植、開発が始まります。それは1887年、伊豆諸島が静岡県から東京都へ移管後のことでした。
式根島は開島から百年そこそこの島ですが、古の人々の生活の匂いを自然の中にかすかに残した島といえるかもしれません。
冒険しよう。東京の島。